もり~ゆ 野巡りの日々、第3章

身近な場所を始め、自然のことなどを書いていきます。

葦毛湿原再生フォーラム第6回に参加しました。

*書けました~。

誰に言われたのでも無いけれど、やはり書き起こして起きたいと思ったのでした。折角聴いた内容、聴いておしまい、にはしたくないですし(もし不都合等あれば対処します)、それに振り返れる形にしておくことは後々役に立つと思っています。

 

7月9日、国指定記念シンポジウム 第6回 葦毛湿原再生フォーラムに参加しました。

場所は豊橋公会堂。初めて入りましたよ。

                 
 コロナ感染のため2度にわたる中止を経ての、ようやくの6回目開催は、葦毛湿原が市や県の天然記念物指定から、国の天然記念物に指定を受けたことによってのテーマでした。
 植生遷移が進み、周りからの森林化が進んでいた葦毛湿原は2013年から大規模植生回復作業が行われ、周囲の木々の伐採と土壌に残っていた埋土種子からの発芽を促して地上絶滅した植物を14種復活させたそうです。上手く復活した種もあれば、そうならない種もあるそうです。 かつては葦毛とその周辺は昔ながらの水田と草刈場だったそうで、葦毛湿原も里山の生態系の中の一つだったというのが意外な気もします。未だどのように以前の湿原の姿に再生できるかは試行錯誤とのことです。講演では、湿地の生態系に詳しい愛知学院大学の冨田啓介さんと、文化庁の田中厚志さんのお話、そして葦毛湿原の管理の中心となっている贄元洋さんと講師のお二人との座談会がありました。

 

2018年9月9日に参加した「葦毛湿原再生フォーラム」について書いた旧ブログ記事。

この頃は作業は第2段階の途中、と言うことでしたが、現在は第3段階に入り、湿地の中心部分を主に行っているそうです。

romendensya.cocolog-nifty.com

少し詳しく

冨田さんのお話から。

葦毛を始めとする東海地方の湧水湿地は、適切な管理計画に基づく人の手入れが必要とのお話し。寒冷地の泥炭湿地との違い。

そして周りには遺跡があったり焼き物の窯跡があったりして、元々は人々の生活との関わりもあったということでした。他には山火事の後など。こうした攪乱が形成に関わってきたと見られるのだそうです。

ではどうやって手を入れるのか、また、手を入れないという世論に対して、データを示しながら議論しながら話し合いを重ねていくことが求められていると言うこと。

 

文化庁の田中さんのお話しから。

何と全国の文化財の担当者は、田中さん入れて3名のみなんだって!

天然記念物指定の基になった文化財保護法の歴史を作ったのは、三好學さんという方だそうで、植物生態学という用語を作られた方なのだそうです。自然保護にも携わり、日本の天然記念物保護を進められたそうで、それゆえ、日本各地の天然記念物には名木や植物群落などが多い理由なのでしょう。

天然記念物を守る意義としては、稀少だからだけでは無く、学術的に価値が高いから守ると言うこと、私達の文化は自然の上に立っているからと言うことでした。

*スライドで度々やはり天然記念物に指定されている秋田犬の画像が出てきてほっこりしました(^^)

 

座談会(なんとかメモから分かる範囲で書いておきます。)

贄さんから

(贄さんは考古学の専門で、葦毛の復元作業には考古学の知識と生態学とコラボしながら行ってきたそうです。)

里山に関心を持ちながら葦毛の管理をしてきた。弥生時代は、湿地から水田を作ってきた。現在の葦毛周辺の多米町、岩崎町の平地はかつてもっと大きな湿地があった。その90%は水田に変わったけれど必ずしも元の自然が破壊されてきてしまったわけでは無い。ただ、現在は圃場整備され乾田化になっている。

葦毛湿原の復元に関しては、昔のようにすればいいのか、と言えばそうではないので、これからどのように再生していけば良いのか。まだどのようにすれば良いのかが分かっていない。

田中さんから

原生的な場所は日本では限られている。人の手が入っていないところはまずない。

 

(発言がどなたか思い起こせませんが)

里山をどう守っていくのか。人の生活の仕組みが変わっていく中で、同じ事をする必要は無い。

ある植物が出やすい攪乱の強度。

どの程度の攪乱を与えれば葦毛の価値を守られるかを判断していく。過去にはどのような攪乱があったのか、常に試行錯誤しながら処理していく。重機(これが無いとなかなか出来ない場合があったそう)または人の手で丁寧に行っていく。自然の様子を見ながら作業を進めていく。

 

贄さんから

この場所は、馬草場として800年管理された歴史がある。再生可能な形で管理されてきたのは間違いない。今、ある程度草を刈ったらどうなるのか実験する。やりすぎると無くなってしまう。昔の記録で、誰がどのように刈るのか記録している地域もある。

ため池のそばに湿地があるケースも多い。里山・湿地の管理を一帯となって考えていく。誰がそれを担うのか。行政が予算を付ければ出来るかと言えば出来ない。昔は村の生業だったので多くの人が関わっていた。現代はそれがボランティアになる。もう少し若い世代の方の参加を。

 

冨田さん

ジオパークとしての考え方もしていくと良い。コミュニティの場として・・・。

 

この日、前の団体にいた頃観察会担当の折、受付を手伝ってくれていたSさんという方に久し振りにお会いすることが出来ました。お話しできて良かったです。あの場所では2番目にお世話になった方だと言えます。

この日はもう少し知っている方に会えるかと思っていましたが、あまり見えなかったのが意外でした。何度か中止になったし都合も合わなかったりしたのでしょうね・・・。

                           
                    写真集愛知県指定天然記念物葦毛湿原の記録
                          豊橋市教育委員会(2010年)
 今回のフォーラムでも話題になったのがこの本で、2010年に豊橋市美術博物館での「葦毛湿原展」開催時に発行された本です。当時見に行っています。弥生時代の頃から現代に至るまでの葦毛湿原の歴史を交えての写真集で、発掘された土器や古墳、古文書、1960~1970年代の当時の葦毛湿原の環境を写した写真も見ることができます。

 

雑感

前の旧ブログ記事にも書いていますが、むやみな伐採による、いたずらな管理とは違う内容であることが今回も伺えました。埋土趣旨=土壌シードバンクの種子は数十年から数百年、場合によっては数千年生きながらえているそうです!それを発掘して蘇らせる手法ですが、破壊してしまわないよう手法には注意し、後世にそのまま残しておく保存を基本にしつつ、回復に利用するのは必要最小限にしているようです。

「実験」というと、以前にお世話になった所ではとても嫌がったことを覚えています。「自然をもてあそぶ感じ」なのでしょうね。でも今回のそれは復元の模索のためだというのは分かります。

湿地は人為の攪乱で出来た、というのも当時は嫌がられていたな、、最もこれは当時開発サイド側の詭弁で、実験という言葉と共に語られたから意味合いが違ってくると思います。

お世話になった場所の大元の方は自然を管理、には懐疑的な見方をしていましたが、でも書かれている内容を読むと、「難しさがある」とか「皆で考える必要がある」とあって、わずかに含みは残しているような気もするのですよね。

多分考えは大きくは今も変わっていないと思います(この辺りが100%ではない、と私が思っている辺りです)。

しかし、そこから近い立ち位置の方とか、やや離れて賛同の立場の方からはそこに輪をかけて「絶対手は入れるな」になっている感じが、、します。

葦毛湿原、確かにかつては勢いが弱かった植物が吹き返している様子も見られます。上手くいかないケースもあるようです。アズマヒキガエルの産卵は、見られなくなってしまった。

色んな意味でこの場所はモデルケースになると思います。批判は私はしないかな。勿論昔のようにと行って、当時の写真のように丘陵の森林まで伐採、はしないと思うし、して欲しくないですが。

まだ、11年の経過が流れた中でも具体的な方法が分かっていない、というのは聴いていて意外でした。でもそれは誠実な向き合いの証左でもあるのでしょう。

 

その翌日、葦毛湿原の探鳥会に参加予定だったのですが、大雨警報により中止になったそうで残念。