もり~ゆ 野巡りの日々、第3章

身近な場所を始め、自然のことなどを書いていきます。

自然系の活動は、見直しの時期にきているのかも。

二つ前のPTAのあり方についての記事、色々なるほど、と思う点が結構あります。

勿論、学校にとって全く必要がないと言い切れるかどうかは一概には言えないですが。(木村先生は魅力的で、取り組みも素晴らしいですが、教育=特別支援関連、では、違う見解を示される方も見えます。でも社会に投げかけた意義はそれでも大きいと思います。)

 

ただ、何よりも頷いてしまうのはPTAであれ、何であれ、全てのボランティア(これから述べる自然観察系活動も含む)における在りようについて的を射る内容であると思えたからなんですよ。

 

一昨日辺り、所属している自然系の活動体の一つからの機関誌が届いて、そこに書いている文などを読んで、益々先の記事を噛みしめることとなりました。

 

内容としては活動の停滞への危機感、活動を受け継いでくれる若い人がいないこと、活発な活動になるのにはどうしたらいいのだろうか、といった事ですね。

こうした問題提起がされる度、なんだかモヤモヤ感というモノがいつもどこかから起こってきていたのですが、木村先生の「しなくてはならない」ではなく「必要だからやる、やりたいからやる」が本来では、という内容読んで確かにねぇ、と思ってしまったのでした。

自然系での若い人材不足については旧ブログでも触れましたが、どうも共通課題になっているようです。それぞれでその課題の浅さ深さはありますが。

ただ、、傍目から若い会員外の人、もしくは会員ではあるけれど活動には関われていない人から見て、

「多くの人が活動しなければ、、若い人が来なければ」だけの声上げをしているところに、「では!」って喜び勇んで関わるのかなぁ、、と言えば、むしろ逆ではないのか、と思えます。

「なんだかお手伝いできなくて申し訳ない、」「なんだか悪いなぁ、」という罪悪感や後ろめたさだけは感じさせてしまいますが、閉塞感を却って感じさせることとなり、活動の意味とか魅力は見えてこない・・・。

そして我が身を振り返って思うのですが(注:今の私はもう若くはない、立派な中高年世代になってしまいましたが)、子育て世代、忙しいです。

ましてや父親だけではなく母親も働きに出ていることが今の時代多くなってきていて、専業主婦はイマドキ珍しくなっているかも知れません。

そして、いまの子どもの世界、余暇としては学校以外のスクールやスポーツクラブなどに入っていることも多く、それらは大抵漏れなく「大会」や「発表」があったりするので親としては子どものことを考えるのであればそちらにエネルギーをどうしても注ぐと思います。よほど親子共に自然にのめり込んでいない限りは。

中学の部活でも、運動部の中には、大会時に生徒の会場への送迎を親がするケースもあります。

高校に入っても意外と忙しいとは良く聞いたし、私の場合も息子の学校は、親が忙しい学校でしたからね。

私も、子どもが小学校までの頃は、子どもの関わりの方に忙しくて自然関係の集まりには顔を出せなかったですし、中学~高校でも何らかの諸用事はありましたし。だから観察会担当できたのは、ある程度手が離れた中学になってから、そしてあまり担当以外のお手伝いはやはりそんなにできなかったのです。

その世代が入りやすいような場作りを心がけた方が良いでしょうね。その方向性に行ってない気がする、そうでない雰囲気がしてしまうし。

だから従来の訴え方、もうやめませんか?

 

*さて、この「若い人を云々」「この活動にはいろいろな人が関われるように」というフレーズ、そのままの意で他意のない場合が殆どだと思いますが、得てして、関わっている人に対するアンチとしての意味合いで言うこともあるという困ったケースもある;

「若い人」「いろいろな人」が来ない=担当者が一人で何でもやっているから良くない、という常套句で言ってくる場合です。

去年の自分へのそれが、まさしく当てはまったと思われ、では、言った本人が果たして本当に活動支援として色んな人に来やすいような呼びかけや動きをしたのだろうか、と思ってしまいます。

思い当たるのは、担当している私に何も言わずに(権限とかを振りかざす意味とかではなく、本当に活動を活性化する上でなら誰々さん来たらよろしくね、と言ってもらえるとうれしい的なそういうこと)、自分たちの同グループの中の人を担当に入れようと誘い込みを働きかけたケースはあって、しかしその人は諸々都合などで入ることはなく、結局上手くいかなかっただけ(その誘われた人は勿論何も悪くない)なのだけど、それさえ私のせいにしたという理不尽な事がありました;

因みに、若い人がどうのと言ってきたのは私よりも年配の相手で、その方が入れようと画策された方も私よりも年上の方でした。

私自身は若い人やそうでなくても多くの人が来るのは歓迎であったし、担当期間中も他者が解説良いですか、と打診が在れば「どうぞ!」と快諾して、時間のやりくりをみながら進めていました。あまりその場所にない事に関する提案は、、お断りか観察会後の紹介でお願いしましたが。

要は排他にしないよう心がけてはいたのですよ。

「いろいろな人が活動に云々」は昔に別の所でも、やはり別のある人へのアンチテーゼに近い形で持ち出されたこともあります。全くなんだろうね・・・。裏に隠れた思惑見えると全く嫌になっちゃう;前向きな課題提起や実践からはほど遠いと思いませんか?

 

まあ、いろいろな人が「私もこういったことをやりたい」「こんな活動しても良いですか」というのがあればどんどん言ってくれればいいと思うし、自発的に是非、と思っています。そう、、「自発的に」が肝心なんだよね~。それが無いというのはその場が言いにくいのか、、もしくはそうした自発的な人がいないというのかどちらか、という感じかなと・・・。これは野生動物を観察している人が若い人を「育てない」理由として「自然については自発的にやるものだから」と言っていて「確かに」と思えたのですよね。

 

 ・・・(小文字部分、一旦封印しましたがやはり書くことにしました。↑は流し読みで構わないです;笑)。

 

活動体ありき、での活動、ってやはりどこか掛け違えになっているのではないかな、と思えるのと、

最近の流れを見ていて、自然系のこうした活動スタイルは時代には合わなくなってきているのかも。若い世代の活動も自然系であるのは知っていますが、ある団体のセクションに入って活動する、というのではなく、独自に個人でツアーやワークショップを開いて行うという形になっているのを感じます。今までの活動形態に若い世代をはめこむ、という形はそぐわなくなっているのかも知れません。

そして本来の目指す所はなんだったの?(自然が大事だから、守りたいから活動している、というものが伝わっているのだろうか、本来アピールするのは活動内容とその意味や楽しさのはず!)

 

以上、率直に思ったことでした。

 

やはり「こうせねば」「やらねばならない」という枠は外して(勿論自然のマナーやモラルに反することは駄目で、そこは押さえておくべきですが)、もっと自発的に関わりやすいシステム(そして責任はそれぞれで、見返りは求めなくて)で、それをゆるやかに支えたり、情報交換していける場である方がいいのじゃないかな・・・。

 

私もやっぱり「組織」というのは向いていないのかも知れないな・・・。

 

木村先生ではないけどPTAについてでこんな記事もあったので、貼っておきます。やはりこれも自然系や他活動でも言えているよね!!

 

なぜ? PTA任意にしたのに「強制に戻す」の声が上がる現場の苦悩(大塚玲子) - 個人 - Yahoo!ニュース