もり~ゆ 野巡りの日々、第3章

身近な場所を始め、自然のことなどを書いていきます。

植物標本を作ってみよう!!~西尾市岩瀬文庫体験講座に参加 その後

*ここから長いです。済みません;追記もあり。

去年、私も見ていたNHK連続テレビ小説(通称朝ドラ)「らんまん」で、牧野富太郎さんをモデルとした主人公のドラマが放映されたこともあって、様々な「牧野富太郎」ブームが到来。

植物への関心も広がるのではと、関係者の方々が好意的に受け止められ、様々な書籍や特集雑誌も発刊されましたし、各地で関連の展示もありますね。

 

morigaiisutekisizen.hatenablog.com

この記事でも書いている、標本の事について。

率直な気持について書きます。

 

・実は標本について半ば乗り気では無い所から始まった私。

元いた場所での方は、標本の存在意義自体は理解されていたと思いますが、ご自身がそれを率先してすることは好まない方だったと思います。

勿論ある程度は標本も作ったとは思いますが・・・。

そして周囲の皆さんは標本、と言うこと自体が肯定的には見ていない方が多かったと思います。だから私自身もそれほど肯定的には見ていなかった、という感じだったかな。

そんな私がこちらに来てしばらくして、標本の整理に関わることになりました。

そう、博物館ボランティア始めたら、未整理の標本マウントでした。

このいきさつなどは旧ブログに書いています。

当時の学芸員Sさんに多少不躾だったかも知れない質問などもして、Sさんの思うところの考えなどを丁寧に説明頂いた事を良く覚えています。

あまり好意的に思っていなかった標本整理作業が当時の色々悩む気持を救ってくれたのは意外なことでした。あの時期苦しかったんだよね、様々。

それに、未整理の標本については、整理してお手伝いしたい、と思う様になりました。

 

・感じた葛藤とは。

やはり私は植物や生きものは生きている姿を見るのが好きだということ。

その地に出かけて、生きている姿を見て過ごすことに喜びを覚える事が大きいです。

状態が良い形で保存された標本にも感動はしますが、葉や花の手触りとか、香りとかみずみずしさとかは生きている姿には叶わない。

これに関しては小野木三郎先生も話していて、生きた標本は正に現地に行って生きた姿を見ることと、著作本に書いてありました。

北アルプス山楽山歩」教育出版社(1989年)より。

(小野木先生は岐阜県博物館の学芸員の経験もあるので、標本作製や整理などにも勿論関わっておられ、その意義は勿論理解した上でだと思います。本書にも標本写真を元にしたフィールド歩きの経験談も載っていますよ。)

そして、肝心の葛藤内容というのは、

そんな私が植物を標本用に採取しよう、とするなら、必要最低限に留めたいと思ってしまう、

しかし標本作製には、1種の植物の、様々な形態をできるだけ多く採取が望ましいとされていること、

ここですね。

Sさんがそう話されたときも、内心「そんなに採るの?」と思ったことを覚えているし、今回の講座でもその葛藤が再び蘇ってしまったのでした。

富太郎さんはある一画の植物を徹底的に採取したそうで、それを今やってしまうと大変なことになってしまいそう、です。

ただし、当日の講座で頂いた資料には、採取の注意点として、法律で保護されている場所などでは許可を得て採取をすることや、その地の植物の絶滅を招きそうな場合は最低限に留めて絶やさないようにすることなどが記載されていました。

採取を控えた方が良い場合は写真撮影で記録に残されるとも質問に答えて頂いています。

 

・やはり最初は自然を見る所からになるかな・・・と。

www.facebook.comここで再びいがりまさしさんのFacebook記事を。

(アカウントある人しか読めないと思うのですが)

懸念と言えば、「らんまん」ブームによって珍しい植物などを欲したり、趣味として標本作りが目標となってしまって自生の植物の存続自体が危ぶまれるようになってしまうことですね。

このあたり写真家のいがりさんが懸念され、身近な滅ぶ必要の無い植物採集と標本作成を薦めたい等、納得のメッセージが書かれていたのでした。

標本作りに興味を持つ人を増やしたい、という想いや願いも分かる一方で、

最初に標本作りと採取、から始める事への気がかりは、やはり「採る」が最初に目的化されて、周りの植物の存続に気を配らなくなることだと思うのです。

その場所で何がどれくらいあって、どれだけなら採っても大丈夫かな、という判断が出来るような目を持ってからでも遅くは無いのでは無いかなぁ、と。その上で記録を取る意味があって必要と思った時点で採取するというのなら納得できる気がします。

山菜採りと似ているところあるかも。

なのでやはり最初は、採取の前に自然観察になるのじゃ無いかな?

そのことで、そして自然の中での彼らの生きる意味を見ようとすることで、単に貴重とか珍しいと言うふるいにかけて見るのでは無く、もうちょっと自然の中に生きている植物寄りの見方になれるし、生物多様性の理解にもつながれそうな気がします。

 

・様々な歩みを通してどうするか。

豊橋に来る前と後とでは、前が絶対だと思っていた世界が一旦崩れてしまい、そして違う考えや見方、感覚のある世界にいることになったのを感じたのでした。

でもそのことでどちらが正しくて、どちらが悪か、という二元論だけで見なくなった気もします。

教えて頂いた事で大事なことも今もあると分かっているけど、全てが絶対でも無いし、ここに来て知ったことも大切なことがある。

様々な歩の中からどんな風に選択して協力なり出来るのかな、という考えたり悩みながらの歩みになる、というのが私なのかな、と言う気もしています。

今回の件もそんな一つだと。

これからの若い皆さんは、一つの教え以外にも様々な見方を見て知って、悩みつつも自分自身で答えを見付けていって欲しいと思うよ。なのでいろんな世界を見てね。

人生に葛藤は付きものさ~、なのですね。

 

*6日のオンラインシンポジウム参加して安堵することに。

 

ujssb.org加藤英寿先生からの資料には、この日本分類学会第23回公開シンポジウムの案内も入っていて、オンライン形式だったので参加申込みをして、1月6日に全てでは無いですが聴くことが出来ました。

加藤先生の講演も聴いて、12月23日の体験講座の復習にもなったかな。

また次の方のシチズンサイエンス(「牧野富太郎と市民科学」)についての話題も興味深かったです。

さて、そして質問の中で、標本採取と絶滅を促す恐れがあるのではと言う内容があり、それに関してはやはり配慮をしていかなくては行けないことと、研究者側がそのことをもっと発進していかなければ行けないこと、牧野富太郎さんの時代は、沢山採っても差し支えないくらい植物がまだ沢山あった時代だったので(今は違う)という返答がありました。

そうですよね、その質問はやはり持たれる人もいると思うし、そして研究者側も考えていかないといけない今は時代として考えているんだな、と安堵したのでした。

 

・色々つらつら書いてしまいました~。

どうもすみません;

今後も標本整理のお手伝いはしていきたいですし、必要に応じて植物を適宜採取、押して標本を作ることもすると思います。

ただ、コレクターにはならないと思います。

書いていて、はっ、と思ったのですが、標本の「コレクション」、というのに抱いている私のイメージが良くないんだな;

これ書くとどう思われるか知りませんが、999の機械伯爵がワインかエネルギーオイルの入ったグラス掲げて、捕まえた獲物の剥製前に(詳細ぶるぶる;はwikiでも;)、

「どうだ、私のコレクションは?素晴らしいだろぅ、は~はっはっは!」

と仲間に披露して高笑い、の図が浮かんでしまう・・・(馬鹿;)。

 

そんなイメージとは違いますよ、ということが書かれているのがこちらです。

これから読みます!!所感も読んだら書きます!!

 

これも読んで学びたいと思います!

以上率直な気持、でした。決して否定じゃ無いです。そして様々な考えを持つ人も見えて、そんな考えにぶち当たったとき、どう説明していくのかも研究者さんの腕の見せ所かも!以上です。

 

標本は記録として活かすためにも博物館などの公共施設に収めることが推奨されています(現実は収蔵庫の容量や、整理しきれないなどの課題もありますが)。

標本などの記録を集めて整理され、研究に役立てているこれら博物館の活動と存続には是非皆様も応援をよろしくおねがいします!!