もり~ゆ 野巡りの日々、第3章

身近な場所を始め、自然のことなどを書いていきます。

興味深い記事

scienceis4every1.weebly.com

 

私もこの記事に出ている方の講演を聴きに行ったのだけれど、最初はもっと真摯な人だと思ったのになぁ。

この記事(どなたが書いたのかは匿名性なので分からないが)のやりとりが本当なら大変残念です。

厚生労働省がそのようなことなんてどこにも言っていないし書いてもいないのに。

ここにも書いたかも知れませんが、

とある雑誌で反ワクチンを主張する医師の方が「コロナの死者はインフルエンザのそれよりも少ないのに大きく取り扱いすぎている」というような事を話されていて、「インフルエンザの死者は年間1万人~5万人としていたので、厚生労働相のサイトを見てみると、実際の数字は一桁少なく、1万人という数字は関連死者としてであったのと、5万人という数字は見当たりませんでした・・・。

 

中盤から後半は正にそうだと頷くことが多いです。

「科学的に」と言葉として使うのは簡単だけれど、「ではどのように?」と述べたり見ていくことは一般人にとってはちょっと労力が要るのですよ。

日々仕事で追われたり、子育て期で忙しかったりすると、目の前のことで精一杯で、育児期に細かい文書を見ることはなかなか出来ないことだったりする。

科学などの分野の専門用語は聞き慣れないものが一杯で、それを聞いて10分かる事なんてなかなか出来ないものなんです。

最近私が「査読が」というのが分かったのは、このところのコロナ関連の不確か情報かそうでないかを知るための方法として論文があってそれが査読されているか否かを見る、といった指南のサイトを見たりしたからです。

研究の世界に関しては、分からないことの方が多いと思う。

自然系でも、一般の自然観察の世界とはちょっとまた違うしね。近い部分もあるけれど、グラデーションもあったりする。

何が本当に問題で、具体的にどう見てどうしていくのが良いのか、科学性、客観性について分かりやすく通訳してくれる人が必要になる。勿論客観性や事実をゆがめない形で。

そして市民の立場の人がそれを利用することは勿論あって良いし、科学者の方がサポートすることは私は良いことだと思うけれど、市民の側も真摯な姿勢で、常に自己を振り返りながら信頼を損なわないよう気を付けていくべきではないかと(科学者の方もどうか同様にお願いしたいです)。

 

所謂環境活動などによる傾向は、以前読んだ高木仁三郎さんの「今、自然をどうみるか」の内容(自然の見方の血の通わない科学性か、または情緒の世界かに分かれてしまった)にも通じるし、AGRI FACTの間宮さんの記事による「自然派」活動の空気感(科学性が受け入れられにくくなってしまう)にも共通しますね。

昔からもあった、無味乾燥な専門的な世界と、感情的・情緒的で客観性を欠く世界との二極化という現象。

 

私も極一般の、ただの自然好きなおばさんに過ぎない身ですが、普通に自然が好きだ~!と言う根底の所は大切にしつつしかしいたずらな情緒性とか、客観性を欠く見方にならないよう、常に自分自身で確かめていくことも大切なんだな、と思っています。可能な範囲でしか出来なくても。

 

*これは、余談だけれど、谷口さんの講演の中で、気候変動アクションをしている若い女の子が「子どもを産むのは(未来が絶望的なので、という意味からか、)諦めた」という話を聞いてその悲壮な決心に胸を打たれたと話していたのをお聞いたのですが、実際にはどうかな、それ?と思ったのでした。

自分自身を振り返って思うに、様々な活動をしていきたいと思う中、子ども=足かせ、と見てしまう事もあるのではないかと・・・。

それに若気の至りから来ている気もしないでも無くて。

いざ、結婚相手が見つかって、その時また変わる可能性は大いにある事でしょう。

(それがいけないわけでは勿論無いし、子どもを持たない人生があっても良いと思う。)

勿論未来を担う次世代のためにも環境は守りたいですね。

 

*広告に「反ワクチン本」なんかがでている!勿論私は賛同してないよ!!