もり~ゆ 野巡りの日々、第3章

身近な場所を始め、自然のことなどを書いていきます。

「いま 自然をどう見るか」高木仁三郎 を読んでの思ったあれこれ。

感想と言えるかどうか分からないけれど、思ったことを書こうと思います。

こんな感じになりました、ということで。

 

・なかなかにこれまでの著書の中では難関だった。

高木仁三郎さんの著作で出会った本は、ここでも取り上げた、「宮澤賢治をめぐる冒険」から始まりました。そこで始めて原子力に疑問を投じる研究者であることが分かりました。やがて「食卓にあがった放射能」を3.11繋がりの中で読み、しばらくして最近、絵本「ぼくから みると」を読んだのでした。

絵本と同時に買った「いま 自然をどう見るか」をようやく最近読み終えましたが、、今まで読んだ高木さんの本の中でなかなかに論文調で難しかったです;

「食卓に上がった放射能」の方がまだ読みやすかったです。注1

とはいえ、高木さんが言おうとするところは大旨分かった感はあります。具体的に何が、となるとこれが難関なんですが。

それは何よりも、ご自身が本書の中で「シチメンドクサイ」と書かれている第1部の古代ギリシアから続く西洋の自然科学論の歴史の説明によるところが大きいです。

 

・第1部は無理ムリ飲み物を流し込む感じ。

何故、一章で西洋の自然科学論の歴史解説から始まったかというと、西洋のそれによって、人間中心主義からの世界観ができあがっていき、自然は人間が征服すべき対象となっていったことの説明に繋がっているからなのですが。

最初のギリシアのプロメテウス神話の辺りからヘシオドス辺りはまだ分かるのですが、いよいよ自然観が人間中心主義へと向かっていくルネサンス辺りからニュートンアインシュタインへ繋がる辺りは理数系が苦手な私には???の連続となってしまいます。

相対性理論」は名前だけは知っているけれど、その内容は知っていれば言おうとすることが掴めるのでしょうが、知らないので困った;言葉と何となくのイメージで、無理ムリ苦手な飲料を飲む感じで読んでいきました。

 

*余談ですが、これらについての乳幼児から読める絵本が最近あるようです。驚き!

junchan.jpビックバンのお話し当たりはちょっと分かるかな~という感じでした。

こうした西洋の「科学的・理性的」な自然観が発達する一方で、やがて高木さんが異を唱える核というものができあがり、環境危機を引き起こすことに繋がってきたと言うことですね。

一方で、生活の中で関わってきた生き物たちとの自然観は科学から切り離されて情緒の世界へ追いやられてしまい、それが二つの自然観に引き裂かれてしまったのだと言うことになると書いています。

確かに、、ギリシアの自然観は人と自然の関係はほぼ対等で、暖かく有機的な関係が分かるのですが、次第に近代になるにつれ、人以外の自然の生きものの息吹や立場は感じられないものとなっていき、「乾いてくる」内容になっているのは感じますね。

*因みにタレスの「万物は水なり」という言葉は、今放送中のNHK朝ドラ「おかえりモネ」で主人公の百音のセリフにも出てきました。気象は水で全て繋がっている、ということですよね。注2

 

・第2部からは若干読みやすくなります。

第二部からはでは、これからの自然観をどう見直していくのか、ということについて、自然破壊の危機から様々な科学者達が捉え直してきた観点を追いつつ、高木さんの活動から体験してきたことなどをふまえての記述となっていきます。

「かけがえのない地球」→「宇宙船地球号」へ、しかしその見方も限界がある、自然と人との繋がりは閉じたものではなくて、もっと解放されたものではないかと本文は進んでいきます。

地球は様々な偶然によって、生命体が生まれる星になったけれど、外形的な条件だけに留まらず、地球のあらゆる生き物たちの共生という繋がりによって地球環境が作られてきていると言うことの考えは共感できますね。

また、高木さんの活動で反核の運動で北アメリカやオーストラリアの先住民、太平洋の島々の人々との関わりから、彼らの自然との暮らし方、単に狩猟や資源を得るのみではない精神面にも繋がる関わり方を知ることになったそうです。

自然によって生きる人々と、自然を盗んで生きる文明社会の人との違い、のあたりはどきりとしますね。

 

・「苦海浄土」読むべきか・・・。

本書では、石牟礼道子さんの書「苦海浄土」の内容から、かつて水俣の海の自然に生かされて暮らしてきた水俣病患者の方のきき書(実際は創作)の内容にも触れています。

企業の出した毒が流れる前の水俣の海で、猟をしながら魚と対話する世界こそが本来の人と自然との繋がりの世界なのではなかったか、ということになるのでしょうね。

いずれは「苦海浄土ーわが水俣病」も読むべきか・・・。読むのには覚悟が要りそうですが。

(あの「チェルノブイリの祈り」も父が亡くなると言うとき中断してしまい読めていないままです。)

 

・今も見方は二つに引き裂かれている。

高木さんの言う、科学中心で理性的、しかし人間中心で暖かみがない乾いた自然観と、情緒的・感情的、科学的な見方を排した自然観との「引き裂かれた世界」。

これは今でも続いているのではないかな・・・。

度々、環境問題がクローズアップされるようになり、解決策も含めた様々な事業や政策、活動などが生まれるけれども、依然、人間中心とした考え方が主で、生態系、人間以外の生きものの立場、自然界そのものに対して目を向けたものは本当に少ないと今も感じています。

コロナウイルス感染は、人間社会が過度に自然界に侵出して、自然とのバランスを崩し、要するに開発をしすぎて本来特定の動物だけに宿っていたウイルスが人と接するようになってしまった現れと言われています。このことの反省と今後の人のあり方の見直しが求められているでしょう、でもそれを学べる社会になるのかな?一方でそんなコロナの感染対策としての科学的な取組は人が生き延びるために疎かにも出来ないのに関わらず、陰謀論だとかでワクチンやマスクの否定の動きには首をかしげてしまいます。

コロナ禍により、密集する都市にではなく、自然の中での暮らし方の模索が始まるようにはなりましたが、それは人の都合や楽しみ、という表面的な一面しか感じられないのは気のせいでしょうか?結局自然を一方的に消費する対象としてでしか見ないというような。

高木さんは、その生きた時代(この本を書いたのが1985年)に、既にレジャーとしてのピクニックやハイキングを無視は出来ないものとしつつ、「商品化されてしまった自然」と書いています。流石!!

本当の意味で人が自然と関わり、語りかけ、かつ自然からの声も聴ける関係はどこにあるでしょうか?

 

・かつての里山の営み、自然観察に望む世界が見いだせるか。

読んで脳裏に浮かんだのは、かつての、人が生活の糧として関わってきた里山や、里海(干潟など)の世界が、自然とのかけ合い、対等な関係としてあるのではないでしょうか。奥山のマダギなどの世界もそうですが。

そして、これまで私も行ってきた、「自然観察」も、これこそ自然と人との関係を捉え直していく場ではないかと。

以前関わっていた場で良く言っていたではないですか、「自然との対話」。これはとあ

る開発計画の隠れ蓑的なキャッチコピーを逆手にとって、こちら側の提案こそそれになるよね、と話していたりしていたし、実際にコンセプトにしたと記憶しています。

人が自然の恵みを得る中で、しかし自然との関わりの塩梅(これ以上やると自然に良くないのでやめるなどの加減)、生きものとの共生のあり方を体得していく場、共に生きていくかけがえのない相手としての自然の見方の場として。

しかし、、現代の生活の場としてではなく、環境維持のための里山管理はどう形作っていけばいいのか、人側のみの都合や感情的な見方のみでは上手くいかない難しさや課題があると思うのであるし、

自然観察の世界でも、自然の生きものの難しい堅苦しい学問的な「知識の解説」という乾いた場(敢えて書いてしまい申し訳ないですが;)でしかなく、なんとなく難しいけれど知識を得られる有り難い場、みたいな受け取りでしか無かったりすることもあります。そうではなく、人がその地域地域の自然と生物を知って、どう付き合えば、向き合えばいいのか、それを感じる、そして科学的な向き合いや正しさも忘れない場としての観察会がもっともっとあって欲しいのですが。そんな血の通った場はなかなか少ないかな、とも思っています。そんな、「引き裂かれた世界」から本来の人々の内なる自然への繋がりへ戻せるかは今後可能なのか、試されているのかも知れません。でも、それこそが、

高木仁三郎さんの願う世界

になるのではないでしょうか。

 

*どうにか書けました。本の文中、線を引っ張ったりして読破したけれど、またきっといずれ読み直すことでしょう、そしてまた唸るのに違いありません。

本書を読まれて更に的を得た感想をどなたかが書いてくださることを願っています。

高木さん、もう少し生きて、私のような理数が苦手な人間にも分かるようなこの手の本を書いていただきたかったかな・・・。注3

 

注1「食卓に上がった放射能」は3.11福島原発事故に関連しての関わりの中で、読んだNちゃん(故人)が「まるで予言書みたいだった」とメールで書いていたのを覚えています。

 

注2今の朝ドラは、東日本震災後の人々のその後を描いたドラマでもあります。良いドラマです。が、やはりというか、、、原発事故のことは触れられてはいない・・・。当時風の動きや雨で放射能の移動が読めたのですが。

 

注3高木仁三郎さん、今生きていたら、、今のこの世の中の状況見てどう思うのだろうなぁ、ということも考えてしまいますね。